あぁ、熱き青春の日々よ、再び・・・・・。
(その2)

右隅にいるのは三上君(当時中学3年生)
そして次は人数が激減してきた頃の写真。11期生〜13期生の時。といっても、この時12期生には部員はいませんでしたから、主流は11期生の12名のみ。日本体育大学を甲子園ボウルまで連れて行った青木君、一切泣き言を云わなかった闘将河内君、社会人ではオールJAPANにまで選ばれた、パイナこと森山君、そして勝山君というパッシングQBを卒業で失い、一気にレシーブする機会を失った山田君と田中君達が部員不足で悩むBEARSを優勝させようと必死に練習していました。
そして1年生にはその後立命館に進学した奈良君、東海大学の主将まで務めた三崎君達もいました。又この頃から当時中学3年生であったキングこと吉田君、三上君らも参加しました。(そういえば、キングという愛称も、彼が中学1年生の時、山中湖ニュー福寿荘で当時9期生であった仲佐君達と一緒に風呂に入りそこで命名されたものです・・・。)
さて、この場所なのですが当時、フットボールの合宿のメッカを山中湖から長野県飯綱高原へと勧めようとしていこともあり、長く使っていた山中湖も練習グランドが使えないことから飯綱高原に決定。左の写真の左上に写っているのはスキー場のリフトです。(確か、長野オリンピックでは女子のモーグル競技は飯綱ではなかったっけ?間違っていたらすぐにこの文章は削除します。)




ニィーアップ・ニィーアップ!
何もせず声で恫喝していた武居教諭でした。
この合宿は本当に河内君に辛くあたった合宿でした。
人数の少なさをキャプテンシーでカバーしてもらおうと必死でしたから。
この頃はバテるということを許さなかった時代!
合宿の日が経つに連れてボルテージは高まっていきました。
辛かったと思う。でもみんな本当によく頑張った。
 先ほどから触れている、この合宿に中学生で参加した三上君達が14期生で、(実はこの学年が関東大会準優勝までした学年なのです。)その時代あたりから、妙に体力がなくなりどうすれば効率的にゲームを進められるかを考え始めた頃です。その理由が、合宿中日を過ぎてくる頃には見る見るボルテージがトーンダウンするようになったからです。勿論、皆疲労は限界に来ているはずなのですが、合宿という不思議な空間に身を委ねていると一次的欲求の方が優先して来るような感じになり、喜怒哀楽がはっきりして単純な動きに”やけくそ”が付いてくる。これでは多分いけないのだろうと思うけど、当時の合宿は間違いなくこうした精神修行のような合宿でした。”起きる→食べる→トイレに行く→練習する→食べる→寝る→練習する→食べる→寝る”といった生理的欲求だけで生活し、その中には創意工夫する二次的欲求の出てくる幕はなかったように思う。勿論、指導者側も単純な作業を繰り返しやらせるわけだ
やっぱりヘルメットはブルーだったと後悔してます。
から、そこに生徒との波長は当然合ってきて妙なボルテージの中、合宿を終えることが出来る。これは一種の自己満足なのかも知れない。でも、いつもと違った生活環境の中から、いつもとは違った自分の力を仲間とともに確認することの意義はこの年代にはとても重要なこと。『何だ、俺でもやれば出来るんだ!』この気持ちが芽生えて来さえすれば、地区大会で勝つのは簡単なことだ。
 合宿最後は必ずダミータックル。私も生徒も皆感情が高ぶっている。目指すは立教のユニフォームを着たダミーを倒すだけ。これが又泣けてくる。でも、私はこの瞬間が大好きだ。なんか、生徒達が皆大きく見えだし、とてつもないことをやってくれそうな気がしてくるからだ。

 さて、話しをその体力不足に戻すと、14期生あたりからこうした”やけくそ魂”より”俺はもう精一杯だ、動けない”と考える二次的欲求の方が勝ってきたように思う。合宿一日目は、妙に元気があるのだが、わずか二日ぐらい経過すると一気にその元気がなくなり、その後はどんなに怒鳴り散らしても、回復しないのである。これはその後15期生へ以降するに連れて尚一層続いた現象でした。ただ、すべてが不満足というのではなく、今まで長い合宿での生活を見ているので、それと比較してという意味です。それぞれの年代では皆精一杯頑張り、必勝という誓いを見せてくれましたから・・・・。

泣けばいいってもんじゃない。って思うけど・・・・・・・、やっぱり江戸取BEARSの連中は皆純粋で必死さが常に漂っていた。だから見ていて自然と涙が出てきたのだと思う。どうですか、皆さん熱き青春の日々を再び感じ取ってくれましたか・・・・?
又明日からのお仕事頑張って下さい。